軽トラ和尚の旅日記

軽トラの荷台に坐禅堂を積んで走る禅僧の修行

軽トラ和尚の旅日記

軽トラ和尚、寺を建てる。

我ながら、大それたことを考えたものです。

そもそも新寺建立などということは、

修行を重ねて、徳の高いお坊さんが

これを慕う人々の篤い誠に支えられて

一念発起してかかるものです。


それをほんの思いつきのように

大した修行も積んでいない者が

協力を得られる徳も無いのに

大見得を切り

大風呂敷を広げて

大慈の幡を立てるなどと宣い

本気で寺を建てると意気込んでいます。


しかるべき人がこれを聞いたら

笑うしかないでしょう。


本人は、いたって本気なので

誰がなんと言おうと

どうしようもなく

臆面もなく

今日も知り合いに

片っ端から

肝心な勧進を行なっております。


ただ建てる規模ですが

三間に四間の12坪程度で

大間一間で

ワンルームマンションならぬ

ワンルームテンプルですから

それほど目くじらを立てられる心配はありません。


ふつうの反応は、

「あ、そう」で終わり。


世の中こんなものです。

あっさりしたものです。

「おのれほど熱くならない冷や奴」

ネギと生姜の薬味を添えて

生醤油を少し落として

どうですか?って勧めても


「それで?」


二の句が継げませんでした。


「ありがとうございました」


これでめげてるようでは

男が廃る。


次行ってみよー、でした。





近未来における望ましい「お寺」の在り方

 江戸時代の檀家(寺檀)制度は、

江戸幕府の民衆支配制度であったことから

明治政府はこれを廃仏毀釈によって解体しようと試みたが

民衆に根付いた宗派帰属意識や先祖供養の慣習は

現在に至るまでもその根を強くおろしている。

 

 この檀家制度が今日までよく保たれたのは

こうした事由以外に、勤勉な檀信徒と清貧な住職僧侶の

相互信頼関係が成り立っていたことに依るところ大であろう。

 

 ところが、ここに来てようやく

檀家制度が崩れ始めようとしている。

否、今までよくもったものだと感心せざるを得ない。

その主な原因は言うまでもない。

時代の流れといえばそれまでかもしれないが、それ以上に

檀信徒と寺院の関係性の希薄にある。

 

 では「お寺」は必要ないのか?というと

まだそこまでは行っていない。

なぜなら、そこに境内地や寺院建物があるからである。

では、老朽化していく建物を維持するのはともかく

たとえば、いざ「建て直す」となれば

果たしてどれだけの檀信徒が協力できるであろうか。

 

 …と、ありきたりの情勢をここに書いても

誰も何の興味も示さないであろう。

書いている自分がツマラナイからだ。

 

 今から私たちがやろうとしていることは、

既存の伝統仏教の手法とは全く違うやり方だ。

今流行のお坊さん派遣でもサラサラない。

どだい仏教であれ他の宗教であれ

押し付けられて、

いったい誰が好ましいと思うであろうか?

 

 宗教団体というのは

押し付けがましいのである。

ご先祖さんを人質にされているような、

歴史的建造物・文化財を見世物にしているような、

とまでは流石に言わないが

人々の救済ということを

本気で考えているのであろうか?

 

 今朝、友から

夏休みに入って給食がない状況で

食べ盛りの子供が

一日にアイスクリーム一本しか食べてないという話を聴いて

泣くに泣けなかった。

 

 怒りが先に立ってしまう。

贅沢三昧で、高級車に乗って、偉そうにしている誰かさんは

本当に「〇〇」しているのであろうか?

 

 人のことはどうでもいい。

近い将来に

本来の「お寺」の活動が

どういうものであるかを表明したい。

 

 基本、毎日お寺にいること。

どこかに勤めにいかなければならない状況は理解できるが

住職というのは住(とどま)り護持する役職である。

本来は住持職なのだ。

住んでいない、

いつも居ないようでは、

……

問題外。

 

そこから何だってできる。

人が集まるお寺は作れる。

 

やるか、やらないか、だけである。

 

 

 

「慈しみ」を英訳すると?

言葉は、特に母国語は、

言葉の持つニュアンスというか

語感が身体の芯まで染みていまして

日本語で「慈しみ」ときますと

直ぐに「慈しみ深い」とか

慈悲とか慈母とか慈愛とか

優しいイメージで捉えることが多いと思います。


では、英語圏でごく普通にこの「慈しみ」を

何と訳しているかと言えば

それは"LOVE"です。

キリスト教が根底にあるからでしょうか。


慈しみは、サンスクリットでmaitrī

パーリ語ではmettāといいますが

相手の幸福を望む心の意であるとされます。

平たく言えば「優しい気持ち」です。


今日は友から便りが届きました。

ここでは具体的に書けませんが

イジメを受けているというのです。

幼少時に両親を亡くした友は、

大変お世話になった方の法要の席で

心無い仕打ちにじっと耐えていました。

ところが、ついに堪忍袋の緒が切れて

切り言葉を吐いてしまったと

嘆くのでありました。


その場に居合わせていませんから

客観的には何も申し上げられませんが

一つ間違いのない事実は

友が辛い気持ちであるということです。

自身を嘆きつつも

腹立たしく、怒っているのです。

そして暗い気持ちになっています。


イジメを受ける側にも責任があると

よく思ったり言われたりしますが、

とんでもありません。

苛めるのは理屈抜きに悪いことです。


過酷な長時間労働、

陰湿な校内イジメ、

生まれ育ちによる差別。

ガキじゃあるまいし

いつまで子供のようなことをやっているんでしょうか?


情けない。


そんな会社や

仲間からは

さっさと離れなさい。

イジメは犯罪ですよ、ハッキリ。


そういって慰めましたが

やり切れない思いでいっぱいです。


今日、最強の友人に

ダンマパダ(法句経)の一節を

MCの方に朗読して戴くよう頼みました。

これを音楽用CDに焼いて

送ろうと思います。


観音様ならどうされるであろうと

考えに考えていましたが

ふとしたきっかけで

思い当たりました。


私もこの一節で心打たれた者の一人です。

これをそのまま伝えようと

何も加えることなく

何も解説することなく


ただ真実の言葉を

ブッダの言葉を

そのまま届けたいと思いました。


慈しみのことばを。






してほしいことを頼む方法

相手の都合を慮り

お願いすればいいものを

遠慮して言わないでいると

ストレスがたまる。

 

相手に断られることを

気にしないというのは

難しいようで

何も難しくない。

 

坊さんの修行で

托鉢というのがある。

乞食行(こつじきぎょう)というぐらい

ものを戴くだけであるが

 

これはやってみればわかるが

実に意外だ。

頂けそうとか

ここはダメだろうとか

人間感覚が及ばない。

実に意外なのである。

 

今日はバックホー(ユンボ)の

オペレーターが上手い先輩の家の

隣との境界について立会いをした。

長年の経験を生かして

無償奉仕で測量した。

 

境界擁壁を設置するためなんだが

昔取った杵柄というやつで

何となく決まるところに決まるコツというものがある。

 

当事者双方が合意して円満解決。

これをやらしてもらうことで

観音堂の基礎工事も手伝ってもらうという魂胆である。

 

ギブアンドテイクとかいうが

日本でも「結い」といって

お互いに助け合う伝統がある。

 

相手が都合悪ければ断る。

それを気にしない。

こちらの都合をお願いする。

これを遠慮しない。

 

今日は自分が出来ることで

誰かの役に立つことを

改めて確認した。

 

まさにお互い様である。

世間はすべからく

お互い様だと思う。

 

お陰様である。

 

慈しみドットコム(itukusimi.com)

www.itukusimi.com

上記のドメインを前に取っていたので

このはてなブログに使いました。

なかなかスムーズに設定できなかったのは

単にドメイン情報の切り替えが出来ていなかっただけでした。

 

ローマ字表記そのままの"itukusimi"

文字通り、

大慈観音堂のメインサイトにしてまいります。

 

カテゴリーなんかもきちんとしなければ

とは思っていますが

毎日の更新だけで精一杯でして

今日で7月も終わり

ということは

明日から8月なので

暑中見舞いの限界が近づいていて

ちょっと遅れると

残暑見舞いになるザンショ。

 

ということで、

今日は

ブログに「独自ドメイン」なるものを

つけたお知らせでありました。

 

慈しみ、

どっとこむ。

 

大慈観音堂でした。

 

笑いの悟りと涙の修行

「涙は修行、笑いは悟り」と

誰かが言っていたが、

そんな馬鹿な話はない。

 

もちろん泣いているようでは

まだまだなのかもしれないが、

笑って居れれば

それに越したことはないが。

 

それでも人間、一生、修行である。

毎日が修行だと信じていれば

どんなに辛いことでも乗り越えられる。

 

なぜこんなことを急に言い出したか?

 

娘一家と久しぶりにファミレスへ食事に行った。

孫娘を笑わすのは造作ない。

ちょっとおどけた格好をするだけで

かんたんに無邪気に笑ってくれる。

娘も私に似て、ゲラ子である。

旦那さんも無口だがよく笑う。

 

笑っている家族を見ていて

自分が一番幸せだと思った。

こんなに有り難いことはない。

 

この笑いを新しい小さな寺で実現したい。

誰が上でも下でもない

皆が寺を我が家と心から思えるようにしたい。

誰に遠慮気兼ねのない

気さくで笑いの絶えない寺にしたい。

 

そう思って

笑いを目指すべきだと断然思った。

別に「お笑い芸人」を目指すのではない。

泣きたくなるようなことがあっても

泣きながら笑い合える仲間をつくりたいのだ。

 

笑いという悟りを目指す。

涙の日々だからこそ

 

笑うのだ。

泣きながら笑うのだ。

これが本当の修行なのだ。

 

そしてこの寺を

世界一の山寺にしてみせる。

もう誰に遠慮することはないのだ。

 

 

そのように

一人から二人、

二人から三人、四人へと

人が増えていく。

 

笑いの出る寺。

大慈観音堂の夢が

だんだん大きくなっていく。

だんだん広まっていく。

 

笑いが止まらない。

 

 

真夏の焚き火だ、焚き火だ、枯れ木焚き♪

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ご覧のとおり、といっても

わからん人には何のこっちゃさっぱりわからんだろうけど

えー、ここが

大慈観音堂の建設予定地であります。

 

ど真ん中に、

檀家総代さんから頂いたドラム缶。

これ、下に焚き口というか通気孔というか

ちょうどいい大きさで四角く切ってあるので

すこぶるよく燃えます。

 

このクソアツイのに焚き火かいっ?ってワケで

汗満開でした。

毛穴が全開で汗腺ゆるみっぱなしでした。

飲めば飲むほどに汗の出る道理で

今日は天然水2リットルいっちゃいました。

 

ところが、ありがたいことに

この写真では、右奥下に

清水がこんこんと湧き出ているのです。

山水、沢水、清水なんでもいいんですが

とにかく、やたら冷たい水です。

 

ここに何とか天然水のボトルを漬けておくと

クーラーボックスが必要ないことに気づきました。

鉄管?ビールもいいですね。

 

それに今日はついに仮設電気が引き込まれました。

電気が使えるんですよ、電気が。

こんな山奥でも

文明生活ができます。

ありがたいことです。

 

それに、

内緒ですが、

水道代がただなんです。

バルブはあってもメーター器のない水道。

別に盗水ではありません。

山水をタンクに集めて配水しているので

簡易水道よりも単純な共同水道です。

 

カルキなんか入る余地がありません。

カエルは入るかもしれませんが**

ちょっと神経質な人は住めませんね。

住みませんってか?

 

冗談はよしこさん(古)ですが、

これで一通り敷地の基盤整備は完了です。

いわゆるライフラインですね。

 

ところで仮設トイレは

ただいま検討中です。

検討中は近くの(といっても遠いが)

コンビニか道の駅のお世話になります。

買うか、レンタルリースか?

これが問題だ(またまた古)。

 

真夏の果実なら「サザン」

真夏の焚き火じゃ「サンザン」です。

広葉樹の生木は燃えにくいっすね。

そしていったん火が付いたら

なかなか消えません。

炭にするはずです。

 

ドラム缶の下に

小さな炭がいっぱい出来ておりました。

 

炭だけに

いったん火が付いたら

燃えます。

 

燃え尽きるまで。

 

 

障害の重い女の子の「命の言葉」

国学院大学の柴田保之さんの研究室の

ウェブサイトから引用させていただきます。

そのページの中に

「子どもたちのことばの広場」があります。

 

重い障害のために

自由に言葉を話すことができない子どもたちが

胸に秘めた思いを

文字盤やパソコンあるいは手を添えてもらっての筆談で

それぞれの思いを

表現されています。

 

中でも「八巻緩名さん」の言葉は

わたしの胸を強く揺さぶりました。

 

10歳になった緩名(かんな)さんが

2004年9月24日にパソコンで残した言葉は

 

かんなかあさんがすきめいわくばかり

 

かんなさんは、

明くる2005年2月20日

突然帰らぬ人となりました。

 

わたしは、

しばらく何も考えられませんでした。

ただ、

子供のように泣いていました。

 

先立たれる悲しみは

子どもに先立たれる辛さは

子どもが親を思う気持ちは

 

理屈なんかどうでもいいのです。

 

先亡精霊供養(せんもうしょうれいくよう)。

 

お盆には、

先に亡くなった人々の霊が

家族のもとに帰ってくると信じられています。

 

残された者は

迎え火を焚いて

精霊たちを迎えます。

生前と同じように

お膳を差し上げ

好きだった食べ物や飲み物、果物を供えます。

これを供養と言います。

 

そして

15日の夜には

送り火を焚いて

見送るのです。

 

一年に

一度だけ

帰ってくると信じる。

 

これが迷信でしょうか?

これは信仰でしょうか?

 

優しさと悲しみ。

これを慈悲と言います。

 

どうか私の分まで

長生きしてね。

元気でいてね。

 

残された者への

これほど強い励ましがあるでしょうか。

 

亡き人の冥福を祈っている、

その時に

亡き人もまた

幸せを祈っているのです。

 

命の言葉です。

 

かんな、かあさんがすき、めいわくばかり。

 

 

時代を超えてホンモノにだけ引き継がれるココロ

久しぶりに「てんびんの詩」を観た。

イエローハット創業者ローヤルの鍵山秀三郎さん監修の

確か三部作の映画であったように思う。

 

あらためて観ると

これは近江商人に学ぶ営業の基本といった

小難しい話ではなくて

どんな仕事にも生活にも生き方にも

つながる

大切な人としての道の基本であろう。

 

劇中の少年の

馬鹿さ加減は

誰にでも根付いている本音であり

正直な、あまりにも純粋な、

そして嘘のない、子供の邪気そのものだ。

 

子供は決して無邪気ではない。

ホンモノを知らないだけである。

ニセモノを本物と勘違いしているのである。

邪気と言ってしまっていいほど

邪なものだ。

 

だが、

そんな子供を見ながら

大人も同じだと思う。

本人が気づいていないだけ。

子供のまま、大人になってしまった、子どもたち。

 

何を隠そう。

私だって、まだまだ子供である。

その証拠に

この「てんびんの詩」を観て

何年かぶりに観て

まだ

泣けて泣けて仕方がないのである。

 

 

今日中にどうしても言って置かなければならないこと

明日は明日の風が吹くなどという軽い話ではありません。

これでも一応は坊主の端くれなので

今朝はブッダの話をします。

 

ブッダは誰に対しても

「友よ」と呼ばれました。

 

ただそれだけです。

それだけですが、

これは誰にでも出来ることではありません。

 

何が言いたいか、おわかりですか?

 

たった百年も経てば

ほぼ全員が死んでいます。

今、生きている人々が死んでいる。

 

さすれば、知り合った人みーんな

友です。

共に生れ、共に死んでいく仲間です。

 

ちょっとした見解の相異なんて

とるに足らないこと。

 

最近、やっと人様のブログを見るようになりました。

いままで、ほとんど人様のは見ておらんかったっちゅうことです。

読んでみて、なるほど、大したものだと。

 

やはり自分の考えとは違うなあと思いつつも

こういう考え方も感じ方も捉え方も

あるのだと感心しきり。

 

で、なぜ今日中なのか?

 

一昨日、右肩をブトに刺されました。

キンカン塗ってあるのですが

左腕に比べて150%の太さになっています。

 

観音堂の建設現場の周囲は

ほとんど原野と化しています。

マムシに噛まれて死ぬこともあるでしょう。

 

今日も友(先輩)からダンプを借りて

友(同い年)と共に現場に向かいます。

 

現地に向かうというより現場に向かうのであります。

いつ死んでも不思議ではありません。

縁起でもあります。

 

縁りて起る。

この世は神が造り給うたのかどうか知りませんが

この世に生れ死んでいくのは

全てが縁であります。

何かしらの関係性が無ければ

生じることはありません。

 

出会った人すべてが縁ある人々。

すべての人は友。

 

自分の好ましい人だけが友ではありません。

好ましくない人も友。

 

ですが、ではありますが、

やはり

これだけは今日中に言っておきます。

 

友よ、ありがとう。

 

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